平家納経は、平清盛が一門32人を率いて厳島神社に奉納した、国宝の装飾写経です。
しかし、この荘厳な経典には、いくつかの謎が潜んでいます。
なぜ清盛は、自ら定めた「一人一品」の原則を破ったのか。 なぜ「平重康」という謎の人物の名が記されているのか。 そして、その筆跡が清盛とそっくりなのはなぜなのか。
800年以上の時を経た今も、完全には解き明かされていない平家納経の謎を、一つひとつ辿っていきましょう。
謎その1:清盛が破った「一人一品」の原則
一人一品供養のはずが
平家納経は、清盛自筆の願文に明記されているように、清盛を含む32人が「一人一品(ひとりいっぽん)」、つまり一人が一巻ずつを分担して書写したものです。
これは「一品経供養(いっぽんきょうくよう)」と呼ばれる形式で、複数の人々が心を合わせて経典を書写し、功徳を分かち合うという、平安時代に広く行われた信仰の形でした。
ところが、平家納経には不思議な事実があります。
清盛が、3巻も書写しているのです。
清盛が書いた3巻
筆跡研究の結果、以下の3巻が清盛の真筆であると判定されています。
- 願文 ー これは当然、発願者である清盛自身が書くべきもの
- 法華経 法師功徳品第十九 ー 奥書に清盛の名あり
- 阿弥陀経 ー 奥書に清盛の名あり
平家納経の復元に携わった、書誌学の第一人者・小松茂美氏による詳細な筆跡鑑定の結果、この3巻はいずれも清盛の自筆であることが確認されました。
しかし、これは明らかに「一人一品」の原則に反しています。
なぜ清盛は、自ら定めた原則を破ったのでしょうか。
急な欠員を埋めるために
この謎について、研究者たちは一つの可能性を指摘しています。
それは、結縁者の中に急な欠員が出たのではないか、ということです。
平安時代の貴族・九条兼実の日記『玉葉(ぎょくよう)』には、一品経供養を行う際、結縁者の一人が突然病死したり、出家して俗世を離れてしまったりして、グループから抜けることがあったと記されています。
そのような場合、代理の者が急遽加わって、欠けた部分を補い、経供養を完成させることが行われていたのです。
平家納経においても、同様のことが起きたのかもしれません。
清盛自らが筆を執った理由
おそらく、32人の中の誰かが、何らかの理由で結縁から外れたのでしょう。
病や死、あるいは政治的な理由で一門から離れた者がいたのかもしれません。
そして、清盛は他の誰かに代筆を頼むのではなく、自ら筆を執って、欠けた部分を埋めたのです。
それは、平家納経を何としても完成させたいという、清盛の強い意志の表れだったのかもしれません。
あるいは、一門の長として、欠員を埋めるのは自分の責任だと考えたのかもしれません。
「法師功徳品」と「阿弥陀経」――この2巻には、清盛の焦りと、それでも祈りを完遂しようとする決意が込められているように思えます。
謎その2:平重康とは何者か
奥書に記された謎の名前
平家納経の一巻、**法華経「厳王品(ごんおうぼん)第二十」**の奥書には、「右兵衛尉平重康(うひょうえのじょう たいらのしげやす)」という名前が記されています。
しかし、この「平重康」という人物が、一体誰なのか、よく分かっていません。
平氏の系図を集めた『尊卑文脈(そんぴぶんみゃく)』にも、重康の名は見当たりません。清盛の息子でも、弟でも、甥でもない――つまり、平家一門の主だった人物ではないのです。
わずかに残る記録
それでも、重康という人物が実在したことは確かです。
平信範の日記『兵範記(ひょうはんき)』や、仁安3年(1168年)の除目(人事異動の記録)には、平重康が豊前守(ぶぜんのかみ)に任じられたという記録が残っています。
また、『後白河院御時下北面歴名』という史料には、重康が後白河院の御所の警備にあたる「北面の武士」であったことが記されています。
つまり、重康は平家に仕える武士であり、それなりの地位にはあったものの、清盛の息子たちや弟たちと比べれば、はるかに身分の低い、いわば「郎党」だったのです。
なぜ郎党の名が?
ここで疑問が生じます。
なぜ、清盛の息子や弟たちといった一門の主要人物を差し置いて、身分の低い郎党・重康の名が、平家納経の中に記されているのでしょうか。
そして、さらに不思議なことがあります。
謎その3:重康の筆跡が清盛とそっくり
驚くべき発見
「厳王品」の筆跡を調べた研究者たちは、驚くべき事実に気づきました。
重康の名で書かれたこの経巻の筆跡が、清盛の筆跡とそっくりだったのです。
最初は、重康が清盛の筆跡を真似たのか、あるいは清盛と似た書風を持つ能書家だったのかと考えられました。
しかし、小松茂美氏による詳細な筆跡鑑定の結果、驚くべき結論が出ました。
「厳王品」も、清盛自身が書いたものである。
つまり、清盛は「平重康」という他人の名を借りて、この経巻を書写したのです。
清盛が書いた4巻目
これで、清盛が書いた経巻は以下の4巻となります。
- 願文 ー 清盛の名で
- 法華経 法師功徳品第十九 ー 清盛の名で
- 阿弥陀経 ー 清盛の名で
- 法華経 厳王品第二十 ー 重康の名を借りて
清盛は、なぜ自分の名ではなく、郎党・重康の名を使ったのでしょうか。
謎その4:清盛はなぜ名を隠したのか
「身隠れ」の風習
この謎を解く鍵として、研究者たちが注目しているのが、平安時代の「身隠れ(みがくれ)」という風習です。
「身隠れ」とは、身分の高い人が、あえて自分の名や姿を隠すことです。
平安時代には、さまざまな場面で「身隠れ」が行われていました。
- 歌合(うたあわせ): 歌の優劣を判定する際、作者の名を伏せて、歌そのものの善し悪しを評価する
- 物詣(ものもうで): 高位の公卿が寺社に参詣する際、牛車を女性用の車に仕立てて、自分の身分を隠す
- 作文の会: 身分の高い人が詩を作る際、女房の名や他人の名を借りて発表する
なぜこのようなことをしたのでしょうか。
それは、名前や身分によって評価が変わることを避けるため、あるいは、謙虚さや奥ゆかしさを示すためだったと考えられています。
清盛の謙虚さ
清盛が「厳王品」に重康の名を記したのも、この「身隠れ」の一環だったのではないでしょうか。
注目すべきは、「厳王品」の完成日です。
奥書によれば、この経巻は長寛2年(1164年)6月2日に完成しています。これは、他の清盛自筆の経巻よりも早い時期です。
つまり、「厳王品」は、平家納経の最初の一巻だった可能性があります。
第一号に自分の名を記さない
清盛は、平家納経の記念すべき第一巻を、自ら書きました。
しかし、その奥書に自分の名を記すことはしませんでした。
代わりに、自分に仕える郎党・重康の名を借用したのです。
なぜでしょうか。
おそらく清盛は、謙虚さを示したかったのです。
「私が最初に書いた」と声高に主張するのではなく、むしろ控えめに、一門の誰かの名を借りて、静かに祈りを始めたかったのかもしれません。
あるいは、「一門全員の祈り」であることを強調するために、あえて自分の名を隠したのかもしれません。
清盛の美意識
この行為には、清盛の美意識が表れているように思えます。
武士として初めて太政大臣にまで上り詰め、誰もが認める平家の棟梁でありながら、清盛は平家納経の第一巻に、あえて自分の名を記さなかった。
それは、形式的な功名心ではなく、真心からの祈りを捧げたいという、清盛の信仰心の表れだったのではないでしょうか。
謎その5:重康は実在したのか
もう一つ、興味深い可能性があります。
それは、重康が本当に実在した人物だったのか、という疑問です。
史料にわずかに名が残るものの、系図にも載らず、平家納経以外にはほとんど記録がない――。
もしかすると、「平重康」という名は、清盛が作り出した架空の人物だったのかもしれません。
あるいは、実在した重康という郎党を、清盛が特別に選んで、その名を借用したのかもしれません。
いずれにせよ、「平重康」という名には、清盛の何らかの意図が込められていることは確かです。
残された謎
平家納経の謎は、今も完全には解き明かされていません。
- なぜ清盛は4巻も書いたのか
- 欠員となったのは誰だったのか
- 平重康とは本当に何者だったのか
- 清盛はなぜ重康の名を選んだのか
これらの問いに、確実な答えを出すことはできません。
しかし、これらの謎を通して、私たちは清盛という人間の複雑さに触れることができます。
一門の長としての責任感、謙虚さ、美意識、そして何よりも、平家納経を完成させたいという強い意志――。
謎の向こうに、清盛の人間性が透けて見えるのです。
もし平家納経を見る機会があれば
厳島神社の宝物館や、特別展などで平家納経を目にする機会があれば、ぜひ奥書に注目してみてください。
「従二位権中納言平清盛」と記された巻。 「右兵衛尉平重康」と記された「厳王品」。
そこには、800年前の清盛の想いと、今も解けない謎が、静かに眠っています。
平家納経シリーズ
- 清盛と厳島〜海の神への篤き信仰
- 平家納経の願文〜清盛が遺した祈りの言葉
- 清盛の誤写〜願文に残された人間らしさ
- 平家納経の結縁者〜32人の祈りと絆
- 平家納経の謎〜清盛が破った原則と隠された名(この記事)
関連記事