承安4年(1174年)、一人の皇子が生まれました。
高倉天皇と建礼門院徳子の間に生まれたこの皇子は、わずか3歳で即位し、第81代天皇・安徳天皇として後世に名を残すこととなります。
その生涯はあまりにも短いものでした。
しかし、源平争乱という激動の時代に、 この幼き帝は、一瞬の、しかし強烈な輝きを放ったのです。
平家物語では、この幼き帝を、際立って美しく、聡明な子供として描いています。そして、800年以上経った今も、そのお姿は、私たちの心に深く刻まれています。
際立って美しい容姿
平家物語には安徳天皇の美しさが何度も記されています。
「御歳は今年八歳にならせ給へども、御身の丈高く、御顔美麗におはしましければ」
御歳8歳になられたばかりでしたが、背は高く、ご尊顔は美麗であられた――。
安徳天皇は、父・高倉天皇と母・建礼門院の面影を、そのまま受け継いでおられたといいます。御髪は長く、ゆらゆらと美しく、その姿を見るだけで、周囲が輝くほどだったと伝えられています。
当時の公卿たちの日記にも、安徳天皇の美しさは、感嘆をもって記されています。それは、単なる社交辞令ではなく、本当にその美しさが際立っていたことを物語っています。
残された肖像
京都の泉涌寺には輝く帝、安徳天皇の肖像画が今に残されています。

そこに描かれるのは、髪を肩まで垂らし、赤い衣を着て、独楽(こま)遊びをするやさしく愛らしい姿――。
いつまでも眺めていたくなるようなそのお姿。それは、本来ならば、ずっと続くはずだった幸せな日々の一瞬を切り取ったもののようにも感じられます。
幼いながらに聡明
安徳天皇は、容姿が美しいばかりではなく、そのご性格も非常にしっかりとしておられたようです。
都を落ちてからの平家一門は、みな厳しい船上生活を余儀なくされました。
揺れる船の上、慣れない環境、そして追いかけてくる源氏の軍勢――。
そんな過酷な状況の中でも、安徳天皇は弱音を吐くことなく、実際の年齢よりも大人びた振る舞いを見せたといいます。
その聡明なご様子から推察すると、安徳天皇は幼いながらにして、「帝」としての自分の立場、そして一門が置かれた危機的な状況を、理解しておられたのかもしれません。
清盛が最も愛した孫
平清盛には、多くの孫がいました。
しかし、その中で清盛が最も愛したのは、安徳天皇でした。
それは、安徳天皇が「天皇」だったからというだけではなく、その愛らしさ、利発さ、そして何よりも、孫としての無垢なお姿が、清盛の心を捉えたからでしょう。
祖父と孫の幸せな日々
平家物語には、清盛と安徳天皇の微笑ましいエピソードが記されています。
言仁親王(幼い安徳天皇)が小鳥のような声を立てて笑うのを見ては、涙を流して喜ぶ清盛。
抱き上げられた言仁親王が、はしゃいで清盛の頭を小さな手で叩くと、清盛はさらにその入道頭を差し出し、頭を叩かせました。
当時の公卿・中山忠親の日記『山槐記(さんかいき)』には、満一歳(現在の二歳)の言仁親王、(後の安徳天皇)が西八条の清盛の屋敷を訪れたときの微笑ましいエピソードが記されています。現代風に読み解き、イメージを膨らませてみると、このような場面だったかもしれません。
清盛に抱き抱えられた幼い言仁親王が、じっと障子を見つめて、 小さな指を伸ばす。 清盛は、自分の指をつばで湿らせてぷすりと髪に指を刺すと、音を立てて破れる。 それを見た言仁親王は鈴を転がすように笑い、祖父の真似をして指を伸ばして穴を開けると、嬉しそうに清盛の顔を見上げてくる。
清盛はその愛らしさ、尊さに、涙を流したと伝えられています。
言仁親王が退出されると、清盛はその穴の空いたその障子を家人に命じて大切に保管させました。
孫が開けた小さな穴――清盛にとって、それはどれほど愛おしいものだったことでしょう。
幼い安徳天皇が無邪気に遊ぶ姿を、目を細めて見守り、そしてその痕跡さえも、宝物のように大切にした清盛。
障子に開いた小さな穴は、祖父と孫の、かけがえのない幸せな日々の証でした。
そこには権力者としての清盛ではなく、孫の前で相好を崩し、笑顔で孫を見守る、一人の愛情深い、祖父としての姿がありました。
福原での幸せな日々
治承4年(1180年)、清盛は都を福原(現在の神戸)に遷しました。まだ戦乱の嵐が本格化する前、平家一門が栄華を誇っていた頃、安徳天皇は、福原で優しい祖父母と母親のもとで過ごしました。
祖父・清盛、祖母・時子(二位尼)、そして母・建礼門院。愛情深い家族に囲まれた日々は、おそらく安徳天皇にとって、最も幸せな時間だったでしょう。
しかし、運命は非情でした。
都落ち、そして西海へ
寿永2年(1183年)、平家一門は都を落ち、西国へと逃れます。
安徳天皇も、一門とともに都を後にしました。わずか6歳の帝が、慣れ親しんだ御所を離れ、船の上での生活を強いられることになったのです。
源氏の追撃から逃れるために、一門とともに都を後にし、瀬戸内海を転々とする日々。揺れる船、荒れる海、そして常につきまとう死の気配――。
幼い安徳天皇は、どんな想いで、その日々を過ごされたのでしょうか。
壇ノ浦での最期
元暦2年(1185年)3月24日。花の玉体を水底にお隠しになったその日。
壇ノ浦の海で、平家と源氏の最後の戦いが繰り広げられました。
戦況は平家に不利でした。
もはや、これまで――。
祖母・二位尼(時子)は、安徳天皇を抱き上げました。
平家物語は、その時の様子を、哀切に描いています。
「帝、『尼ぜ、われをばいづちへ具して行かんとするぞ』と仰せければ、二位殿、幼き主を慰め奉りて、涙を押さえて申されけるは、『君はいまだ知ろしめさずや。前世の十善戒行の御力によって、今生には万乗の主と生まれさせ給へども、悪縁に引かれて、御運既に尽きさせ給ひぬ。まづ東に向かはせ給ひて、伊勢大神宮を御拝あって、其の後西方浄土の来迎にあづからんとおぼしめし、西に向かはせ給ひて御念仏候ふべし。この国は粟散辺地とて、心憂き所にて候へば、極楽浄土とて、めでたき処へ具し参らせ候ふぞ』と申して」
安徳天皇が「尼よ、私をどこへ連れて行こうとするのか」と尋ねられると、二位尼は、幼き帝を慰めながら、涙を抑えて答えました。
「この世はつらい所です。これから、極楽浄土という素晴らしい所へお連れします」
そして、二位尼は安徳天皇を抱いたまま、海に身を投じたのです。
波の下にも都がある
二位尼は、安徳天皇に語りました。
「波の下にも都がございます」
海の底には、竜宮城があり、そこには美しい都がある――。
それは、幼い安徳天皇を安心させるための、優しい嘘だったのかもしれません。
しかし、私たちは信じたいと思います。
波の下に、本当に都があったのだと。
そこで、安徳天皇が、祖母や母、そして平家一門の人々と、再び幸せに暮らしているのだと。
いとおしく、痛ましい運命
安徳天皇の美しさ、利発さは、当時の人々を魅了しました。
しかし、その優れた資質ゆえに、かえってその運命は、痛ましく思えてなりません。
もし、もう少し時代が穏やかだったら。 もし、源平の争いがなければ。 もし、平家が滅びなければ。
安徳天皇は、成長し、立派な天皇になられたことでしょう。清盛が夢見た、武家と朝廷が融合した新しい時代を、築かれたかもしれません。
しかし、歴史に「もし」はありません。運命はそんな輝かしい未来を許しませんでした。
だからこそ、私たちは祈らずにはいられません。
どうか、竜宮城でこの幼い帝が、一門とともに幸せでありますように。
その場所が、たくさんの光に満ちていますようにと。
祖父・清盛が、再び孫を抱き上げて、笑っていますように。
祖母・時子が、安徳天皇に優しく語りかけていますように。
母・建礼門院が、我が子を胸に抱いて、平和な時を過ごしていますように。
愛された帝
安徳天皇は、多くの人々に愛されました。
祖父・清盛に。 祖母・時子に。 母・建礼門院に。 そして、平家一門の人々に。
その愛情は今も変わることなく、時を超えて私たちの心に届いています。
だからこそ、私たちも安徳天皇を忘れません。
そして、その短い生涯に、静かな祈りをいつまでも捧げるのです。
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