平家納経の願文は、一品経供養の締めくくりをなす、極めて重要な文書です。
本文65行、795文字。清盛は、この願文を自らの筆で記しました。
しかし、この荘厳な願文には、意外な一面が隠されています。それは、清盛が3箇所で誤写を犯し、それを修正した痕跡が残っているということです。
武士として初めて太政大臣にまで上り詰め、「稀代の天才」とも「平家のゴッドファーザー」とも称される清盛。そんな彼でさえ、筆を執る時には誤りを犯す――この事実が、800年の時を超えて、私たちに何かを語りかけてきます。
第一の誤写:「弟」と「芳」
願文の第2行目、第一字目。
ここで清盛は、「芳」と書くべきところを誤って別の字を書いてしまい、水で洗い流して書き直した形跡があります。
おそらく、右隣の第1行目「弟子清盛」の「弟」の文字に目が移ってしまったのでしょう。「芳」と書くはずが、つい「弟」と書きかけてしまったのです。
清盛は、すぐに誤りに気づいたに違いありません。「しまった」と思いながら、水で慎重に文字を洗い流し、改めて「芳」と書き直したのです。
この痕跡は、今も紙に残っています。
第二の誤写:「不信」の脱落
願文の第23行目。
「在一心之信不信者欺」という文章の中で、清盛は「不信」の二文字を書き忘れてしまいました。
書き進めていくうちに、文字が抜けていることに気づいたのでしょう。清盛は、行の傍らに小さく「不信」の二文字を書き加えました。
完璧を期して筆を進めていたはずの清盛。しかし、長い願文を書き続ける中で、うっかり二文字を飛ばしてしまった――。
そんな清盛の姿が、この小さな書き加えから見えてくるようです。
第三の誤写:「善」の重複
願文の第43行目。
「尽善尽美」――「善を尽くし、美を尽くす」という、平家納経の精神を表す重要な言葉です。
ところが清盛は、3文字目の「尽」を書くべきところで、上の「善」を再び書いてしまいました。「尽善善美」となってしまったのです。
誤りに気づいた清盛は、再び水で文字を洗い流し、「尽」と書き改めました。
この「尽善尽美」という言葉は、一門32人が心を込めて作り上げた平家納経の理念そのものです。その大切な言葉を書く時でさえ、清盛は誤りを犯してしまったのです。
許された誤写
通常、このような誤写は許されるものではありませんでした。
もし、これが朝廷に仕える能書家(のうしょか)の筆によるものであれば、書き直しを命じられたことでしょう。写経は神聖な行為であり、一字一字に心を込めて、誤りなく書き上げることが求められたからです。
しかし、この願文は違いました。
書いたのは、他でもない願主・清盛自身です。清盛の真心から発した言葉を、清盛自らが筆に託したもの――だからこそ、このような誤写も「些事」として許されたのではないでしょうか。
いや、むしろ清盛自身が、「これで良い」と判断したのかもしれません。
完璧に整えられた文字よりも、真心を込めて自ら書いた文字の方が、神仏に届くと信じたのかもしれません。
清盛の「はっ」とした表情
誤写を発見した時の清盛の表情を、想像してみてください。
真剣に筆を進めていた清盛が、ふと誤りに気づく。「しまった!」と眉をひそめ、一瞬手を止める。そして、慎重に水を含ませた筆で文字を洗い流し、改めて正しい文字を書く――。
その姿は、威厳ある太政大臣というよりも、一人の人間として真摯に祈りを捧げる、素朴な信仰者のようです。
また、「不信」の二文字を書き忘れた時、行の最後まで書き進めてから「あれ、何か抜けている…」と気づいた清盛の姿も、どこか微笑ましいものがあります。
人間・清盛に触れる
平家物語は、清盛を時に「驕れる者」として、時に「悪行の人」として描きます。
しかし、この願文の誤写は、そうした物語の中の清盛像とは異なる、もう一つの清盛の姿を教えてくれます。
それは、完璧ではない、失敗もする、でも真摯に祈りを捧げる、一人の人間としての清盛です。
稀代の天才であり、平家一門のゴッドファーザーとも言える清盛でさえ、筆を執る時には誤りを犯す。そして、その誤りに気づいた時、水で洗い流してやり直す――。
その姿は、どこまでも人間的で、私たちに近しく感じられるのです。
800年の時を超えて
この誤写は、800年以上経った今も、和紙の上に残っています。
水で洗い流された痕跡、小さく書き加えられた文字。それらは、清盛がこの願文を書いた時の緊張と、そして誤りに気づいた時の動揺を、今も静かに伝えています。
もし、あなたが平家納経の願文を目にする機会があれば――厳島神社の宝物館や、特別展などで――ぜひ、この誤写の部分にも注目してみてください。
第2行目の洗い流された痕跡。 第23行目の小さく書き加えられた「不信」。 第43行目の「善」から「尽」への書き直し。
それらは、清盛の人間らしさを伝える、かけがえのない痕跡なのです。
完璧でないからこそ美しい
日本の美意識には、「不完全の美」という考え方があります。
茶道の茶碗に見られる「景色」、侘び寂びの世界観、あるいは金継ぎで修復された器の美しさ――日本人は、完璧でないものの中に、かえって深い美を見出してきました。
清盛の願文の誤写も、ある意味でそうした「不完全の美」と言えるかもしれません。
完璧に整えられた文字よりも、誤りを含みながらも真心を込めて書かれた文字の方が、むしろ清盛という人間の真実を伝えている――そう感じるのは、私だけではないはずです。
祈りの本質
誤写を含む願文を、清盛は厳島神社に奉納しました。
それは、形式的な完璧さよりも、祈りの真心を重んじたからではないでしょうか。
神仏は、整えられた文字ではなく、人の心を見る――清盛は、そう信じていたのかもしれません。
だからこそ、誤写を含む願文も、清盛にとっては、自分の真心を最も正直に表したものだったのです。
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