長寛2年(1164年)、平清盛は一門を率いて厳島神社に参詣し、平家納経を奉納しました。
この一大事業に参加したのは、清盛を含めて32人。彼らは、それぞれ一巻ずつを分担して書写し、厳島明神の御宝前で経供養を行い、結縁したとされています。
32人――この数字には、どのような意味があったのでしょうか。そして、この時に集った人々は、どのような面々だったのでしょうか。
清盛自らが記した願文には、結縁者の名前は明記されていません。しかし、願文の記述と奥書に記された名前から、その多くが明らかになっています。
32人という数字の意味
平家納経は、全33巻から成ります。
法華経28品、無量義経1巻、観普賢経1巻、阿弥陀経1巻、般若心経1巻、そして願文1巻――合わせて33巻です。
結縁者は32人。つまり、清盛を含む32人がそれぞれ一巻ずつを担当し、願文は清盛が書いたということになります。
この「32」という数字は、平家一門の主だった人物と、清盛に仕える郎党たちを合わせた、ちょうど良い人数だったのかもしれません。
あるいは、清盛が意図的に32人を選んだのかもしれません。一門の結束を示すために、また、厳島神社への信仰を一門全体で共有するために。
願文に記された人々
願文には、結縁者の名前は記されていません。しかし、以下のような記述があります。
弟子並びに家督三品武衛(かとくさんぽんぶえい)将軍、および他の子息等、兼ねて舎弟将作代匠(しょうさくだいしょう)、能州・若州の両刺史、門人家僕、都盧(すべて)卅二人
この記述を読み解くと、以下のような構成になります。
- 弟子:清盛自身
- 家督三品武衛将軍:嫡男・重盛
- 他の子息等:宗盛、知盛、重衡など清盛の息子たち
- 舎弟将作代匠:弟・頼盛
- 能州刺史:能登守・教盛(弟)
- 若州刺史:若狭守・経盛(弟)
- 門人家僕:一族郎党
この「門人家僕」という言葉に注目してください。これは、単なる家臣や召使いという意味ではなく、清盛の教えを受ける者、清盛の家に仕える者という、敬意を込めた表現です。
清盛は、一門の血縁者だけでなく、自分に仕える郎党たちをも、この神聖な事業に参加させたのです。
結縁者32人の内訳
願文と奥書から判明している結縁者は、以下の通りです。
清盛とその息子たち
弟子
- 従二位権中納言平清盛(47歳)
家督三品武衛将軍
- 正二位右兵衛督平重盛(27歳):清盛の嫡男
他の子息等
- 美作守左馬頭平宗盛(18歳):清盛の三男
- 武蔵守左兵衛権佐平知盛(13歳):清盛の四男
- 尾張守平重衡(5歳):清盛の五男
清盛の兄弟たち
舎弟将作代匠
- 修理大夫平頼盛(31歳):清盛の異母弟
能州刺史
- 能登守内蔵頭平教盛(37歳):清盛の弟
若州刺史
- 若狭守左馬権頭平経盛(41歳):清盛の弟
平家一門
- 左京権大夫平信範(52歳)
- 右少弁右衛門佐平時忠(35歳):清盛の義弟
- 蔵人平親宗(21歳)
- 中務大輔平通盛:教盛の子
- 右兵衛佐越前守平保盛:頼盛の子
- 美濃権守平維盛(8歳):重盛の嫡男
- 右兵衛佐平忠度(21歳):清盛の弟
- 左近衛将監平仲盛
- 越前守平資盛:重盛の子
- 中務権大輔平知盛:(知盛が二重に記載されている可能性)
郎党(門人家僕)
- 左衛門少尉平盛国:清盛の乳父
- 左衛門少尉平盛信
- 検非違使平貞能
- 左衛門尉平盛俊
- 蔵人平時家
- 左衛門少尉平康俊
など
この32人を眺めると、いくつかの特徴が浮かび上がります。
三世代にわたる結縁
この32人の中で、最年長は52歳の平信範、最年少はわずか5歳の平重衡です。
5歳の重衡は、まだ字を書くこともおぼつかなかったでしょう。おそらく、清盛や誰かが代筆したか、あるいは重衡の名前で奉納されたのだと思われます。
それでも、清盛は幼い重衡をこの事業に参加させました。
なぜでしょうか。
それは、平家納経が単なる清盛個人の発願ではなく、平家一門全体の事業だったからです。清盛は、幼い子供から年配の者まで、三世代にわたる一門の全員を巻き込んで、この祈りを捧げたかったのです。
嫡流と傍流
この32人の中で、中心となるのは清盛の直系――清盛自身と、その息子たち(重盛、宗盛、知盛、重衡)です。
特に、嫡男・重盛は「家督三品武衛将軍」として、清盛に次ぐ重要な位置づけを与えられています。重盛27歳、すでに一門の次期棟梁としての風格を備えていたことでしょう。
一方、清盛の弟たち――頼盛、教盛、経盛、忠度――も重要な役割を担っています。彼らは「舎弟」として、清盛を支える存在でした。
さらに、孫の世代(維盛、資盛)も参加しています。維盛は8歳、資盛の年齢は不明ですが、おそらく10代前半だったでしょう。
こうして見ると、平家納経は平家一門の「家族写真」のようなものだったと言えます。
郎党の存在
注目すべきは、血縁者だけでなく、郎党たちも結縁者に名を連ねていることです。
中でも、平盛国は清盛の乳父(めのと)、つまり清盛の養育を担った人物です。清盛にとって、盛国は血の繋がりを超えた、かけがえのない存在でした。
清盛は、こうした郎党たちをも「門人家僕」として、この神聖な事業に参加させました。それは、平家一門が血縁だけでなく、主従の絆によっても結ばれた「家族」であることを示しています。
未解明の謎
平家納経33巻のうち、奥書に書写者の名前が記されているのは一部のみです。
清盛が願文を書いたことは確実ですが、他の32人が具体的にどの巻を担当したのかは、多くが不明のままです。
なぜ、全員の名前が残されなかったのでしょうか。
一つの可能性は、書写者の名前を記すことよりも、一門全体で奉納するという「行為」そのものが重視されたからかもしれません。
あるいは、時の流れの中で、一部の奥書が失われたのかもしれません。
この謎は、800年以上経った今も、完全には解き明かされていません。
この時の絆、その後の運命
長寛2年(1164年)、厳島神社に集った32人。
彼らは、清盛を中心に、一門の繁栄と厳島神社への感謝を込めて、心を一つにして平家納経を奉納しました。
しかし、この時から21年後――。
元暦2年(1185年)、壇ノ浦の戦いで、平家一門は滅亡します。
この32人の多くは、壇ノ浦で命を落としました。
- 重盛:壇ノ浦の6年前、1179年に病死
- 宗盛:壇ノ浦で捕虜となり、後に斬首
- 知盛:壇ノ浦で入水
- 重衡:南都焼討の責任を問われ、斬首
- 教盛:壇ノ浦で入水
- 経盛:壇ノ浦で入水
- 忠度:一ノ谷の戦いで戦死
- 維盛:那智の沖で入水(伝承)
- 資盛:壇ノ浦で戦死
- 通盛:壇ノ浦で入水
唯一、生き残ったのは、異母弟の頼盛でした。頼盛は源頼朝に帰順し、平家滅亡後も生き延びました。
絆の記憶
平家納経を奉納した時、32人は何を思ったのでしょうか。
清盛は、一門の繁栄が永遠に続くと信じていたかもしれません。幼い重衡や維盛は、大人たちに混じって、緊張しながらも誇らしげだったかもしれません。重盛は、父・清盛の背中を見つめながら、いつか自分が一門を率いる日を思い描いていたかもしれません。
しかし、運命は過酷でした。
この時の絆は、20年後、壇ノ浦の海に散りました。
それでも、平家納経は残りました。
32人の祈りと絆の証として、今も厳島神社に伝えられています。
名前のない者たちへの祈り
奥書に名前が記されていない者たちもいます。
彼らが誰だったのか、私たちは知ることができません。
しかし、彼らもまた、清盛とともに厳島神社に参詣し、心を込めて一巻を書写したことは確かです。
名前が残っていなくても、彼らの祈りは、平家納経の中に込められています。
そして、800年以上経った今も、その祈りは静かに輝き続けているのです。
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